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キュアクサレス2世 (メディア最後の王) : ウィキペディア日本語版 | キュアクサレス2世 (メディア最後の王)[きゅあくされす2せい]
キュアクサレス2世 は、メディアの王とされている。その統治はギリシアの史家クセノフォンが著述している。この人物をダニエル書に登場する"メディア人ダレイオス"と同一と見なす説がある。キュアクサレス2世はヘロドトスやクテシアスの史書では言及されておらず、キュアクサレス2世が実際に存在したかどうかについては議論がある。クセノフォンはメディアとペルシアの二王国が平和的に紀元前537年ころ統一された(8.6.22, 8.7.1)と語るが、ヘロドトス(BC)が述べるところ(1.214)によればメディアは紀元前559年ごろペルシアの反逆により征服されたとされており、メディア人の王キュアクサレス2世が存在したかどうかはこの問題にも重要な鍵となっている。 == クセノフォンの''『キュロスの教育』'' == クセノフォンの『キュロスの教育』(1.5.2)によれば、キュアクサレス2世はアステュアゲスの後継としてメディア帝国の王座についた。また、キュアクサレス2世はキュロス大王の母マンダネの兄弟であった(1.2.1, 1.4.7)。クセノフォンは、紀元前539年のバビロン征服の際はペルシアのキュロスが遠征を率い、おじのキュアクサレスはエクバタナに留まっていたと記述している。〔''Cyropaedia'' 6.3.2, 7.4.16, 8.5.17.〕 キュアクサレスはその頃までには年老いており、〔''Cyropaedia'' 4.5.32, 6.1.6.〕 andキュロスが遠征の指揮を執っていたため、軍はキュロスを王とみなすようになった。キュロスがキュアクサレスのためにバビロンに用意した』宮殿にキュアクサレスを招いたのち、キュアクサレスはその娘(キュロスのいとこにあたる)とキュロスの結婚を認め、メディア王国とともに彼に渡した。〔''Cyropaedia'' 8.5.19.〕 キュアクサレスは名目上バビロンからメド-ペルシア帝国を死ぬまでの2年間統治した〔(''Cyropaedia'' 8.6.22, 8.7.1.〕 が、実際の権力はキュロスにあった。〔''Cyropaedia'' 8.6.22, 8.7.1.〕 キュアクサレスの死に及んで、帝国は平和裏にキュロスに受け継がれた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キュアクサレス2世 (メディア最後の王)」の詳細全文を読む
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